昭和42年04月11日 夜の御理解
信心の喜び信心の喜びとこう言うが、信心の喜びとこう信心をつけると言う所に、このやはり信心でなから無ければ頂けない喜びがある筈なんです。その喜びに浸らせて頂いて、またその信心の喜びを求めて、信心の稽古をさして貰い、信心の生活をさせて貰って、私共の姿勢?でなからなければならないとこう思う。
ですから只の普通の人が云う喜びと、信心の喜びというのは、おのずと違うて来なければならない。そこでその信心の喜びとのはならどう云う様なところに、そのまあ普通の人が云う喜びと信心を頂くものの喜びというものは、どこがけじめであり、どこがどう違うのかという事なんですね。誰でも、思いがけない物を貰ったり、難しい事が成就致しましたりすると、やはりそれは喜ばん者はありません。
これはだから信心の有っても無かってもこれは同じなんです。丁度子供がおやつを頂いてから、その喜々としておるのと同じ事。そこでその信心の喜びと云うのは、どこがどう違うかと。今日私はあの夕方、今日はあの家内が熊本に、若先生と一緒に行っとります。奈良から家内の母になる人が、九州一周旅行に参っとります。もう80いくつかでしょう。それでもちろん。
このここにこうしてあの御造営がなったという事なんかも知らんで参ります訳です。それでその家内に一目会いたいと云うので、あちらからその前に手紙を寄越しておりました。それで私がもう、またとはとても来られないし一辺九州にも行きたい、そげんとこにも行きたいとああして云うとったんだから、今度はその団体から外してですね、久留米あたりで下車させて、連れて帰って来んかと云うておりましたんです。
ところがその汽車が「ひのくに」あの寝台列車だけの車だそうですから、普通のは乗れない事が昨日判ったんですよ。そこで、今日、なら熊本まで行かなければ、っその会えない事が判りましたもんですから、そう云うて居るところへ、今朝からあの麻生さんが見えられましてね。で、秋永先生から「お前行ってやらんかと、こげなふうで、明日奥様が熊本に行かれるからと。」
「なら私が御用頂きましょう」と云うので、今日丁度昼過ぎに来て下さいました。それでまあ、長男と二人で参りまして、まあはたして降りると云うか、降りらんと、もうせっかくもう旅費払い込んであるんですからね。又、みんなと一緒に寝台車で、もう帰るばっかりなんですから。今日、熊本を最後の見物をして、もう奈良の方に帰るわけなんです。ですから、降りらんと云うかも知らんけれど。
まあ兎に角、まあそう云うて熊本から自動車でこちらへ来る様にと云う事で参っとります。ま来るならば恐らく10時ごろ、こちらへ着くのじゃないかと思うんですけれども。それでその私御飯を頂く時に、今日おばあちゃんが来るから、何か今日内田さん親子が勝手の御用頂いとりましたもん、それでその何かやわらかいもの、ね、何かそのでも作っておいてくれと、暖かいものでもしとってくれと、と云うて。
私茶椀なんかも是を使ってくれあれを使ってと云う風に、心を使わせて頂いて最後にあの漬物を美味しいものを色々頂いておるから、ああこのお漬物はあの君ちゃんきざんでおいて頂戴、きざんでおいてからお皿にちゃんと盛っといて頂戴、云うた途端にですね感激するんですよ。なら私も大してその大体年寄りが好きですからね。なら昔から信心の薄かったというと。
現在私が信心がその、強うなったという訳ではないですけれどもです、ね、昔から私は年寄りを大事にしたり、親切にするという事が好きでしたから、そう云う様な事もしただろう、云いもしただろう、けれどもなら、その喜びになって湧いて来ると云う様なものは無かったです。そこでその、どういう風に違うかと、私は思うてみたんですね。そして私は思うのに、今晩頂きます様に。
信心頂く者の云う喜びと、または信心薄き者の云う信心頂いとるちゃ有り難い事だという、その喜びと、ね、本当の信心の喜びいわゆる法悦という。ね、信心をさして頂く者しか頂けないところの信心の喜びというものをです、と云うのは、只、私が貰うたから有り難いと云うのじゃないと云う事。うならば与えて喜べるものであるという事。いやそれはです、天地の親神様が喜ばれる喜びだという事。
私が喜ぶのじゃない、神様が喜んで下さる喜びだという事。その喜びが、丁度、照り返って来る様に、私の心の中に湧いて来る喜びを、はあ、これは信心の喜びだなあと云う事を私感じたんです。ですから云うなら信心を愈々求め、本当の信心が判りたいとこう願う、そこにはもう私が日頃申します様に、改まりと磨く事と改まることにあるんですけれども、それを煎じ詰めて云うと限り無く美しうなりましょうやと。
もう人間私共汚い汚い洗ってみると汚い私だという事に気付して貰って、限無く一つ美しうならして頂こうじゃないかと、美しうはならんでもそう云う願いそう云う意欲に燃えた日々ね、それを神様が喜んで下さる。その心で年寄りを思う時にです神様が喜んで下さるんですね。だから信心の喜びとは神様が喜んで下さる喜びが、私共の心に照り返って来る喜びを信心の喜びというのだなと分からして頂いた様な気がするんです。
成る程私が信心が薄い時に思うた親切と、ね、現在私が思う親切とは、そこにいわば段が違って来たという事。ね、しかもそれが、神様に通う様な思い方と云う事がです、ね、そのまま神様に通い、その神様の喜びが又、私の心の中に返って来る。丁度、山彦の様なもんです。そう云う私は喜びをですね、楽しみに信心の稽古をさせて頂くという事がです、信心の喜びを求めての、信心生活というじゃないでしょうかね。
どうぞ。